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マルゲリータ・ディ・サヴォイア (マントヴァ公妃) : ミニ英和和英辞書
マルゲリータ・ディ・サヴォイア (マントヴァ公妃)[ひ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
: [こう]
  1. (n,suf) prince 2. lord 3. duke 4. public 5. daimyo 6. companion 7. subordinate
: [ひ]
 【名詞】 1. princess 2. consort 

マルゲリータ・ディ・サヴォイア (マントヴァ公妃) : ウィキペディア日本語版
マルゲリータ・ディ・サヴォイア (マントヴァ公妃)[ひ]

マルゲリータ・ディ・サヴォイア(Margherita di Savoia, 1589年4月28日 - 1655年6月26日)は、マントヴァ公およびモンフェッラート侯フランチェスコ4世の妃。スペインとの同君連合時代のポルトガルで、最後の副王となった。ポルトガルでは「ドゥケサ・デ・マントゥア」(Duquesa de Mantua:マントヴァ公妃)の称号で知られる。
サヴォイアカルロ・エマヌエーレ1世と妃カテリーナ・ミカエーラの第2子として、トリノで生まれた。
1608年2月、マントヴァ公世子だったフランチェスコと結婚。マリア(1609年 - 1660年)、ルドヴィーコ(1611年 - 1612年)、エレオノーラ(1612年、夭折)の3子をもうけた。ところが、1612年にマントヴァ公となったフランチェスコは同じ年のうちに亡くなった。フランチェスコには長女マリアしかいなかったため、彼の実弟フェルディナンド枢機卿が還俗し、フェルディナンド1世・ゴンザーガとして公位を継いだ。
男子継承を優先させたことに、マルゲリータは憤った。元々、男子が優先されるものの女性による公位継承は禁止されていたわけではなく、1531年にモンフェッラート侯位を持っていたマルゲリータ・パレオロガがマントヴァ公フェデリーコ2世・ゴンザーガと結婚したことにより、フェデリーコ2世はモンフェッラート侯を名乗るようになったのである。幼いマリアの後見としてマルゲリータは抗議をしたが、フェルディナンド1世の治下で冷遇された。
1626年、フェルディナンド1世は妃カテリーナ・デ・メディチ(トスカーナ大公フェルディナンド1世・デ・メディチの次女)との間に子供がないまま没し、後を継いだのは彼の弟で枢機卿だったヴィンチェンツォ2世・ゴンザーガだった。彼も子供がないまま、翌1627年に急逝した。このため、マントヴァ公位をめぐって(1627年 - 1632年)が起こり、公国はスペインに占領された。
マルゲリータの長女マリアは、1627年にフランスの貴族ヌヴェール公シャルル・ド・ゴンザーグ=ヌヴェールゴンザーガ家の傍系)と結婚した。これにより、マントヴァ公位はシャルルのものとなり、彼はカルロ1世としてマントヴァ公およびモンフェッラート侯となった。
1635年、マルゲリータは母方の従弟にあたるスペイン王フェリペ4世に依頼され、スペイン領ポルトガル副王となった。彼女はフェリペ2世の孫娘であり、姉妹である父方の曾祖母ベアトリーチェ・ディ・ポルトガッロと母方の曾祖母イザベラ・フォン・ポルトゥガルの2人を通じてポルトガル王マヌエル1世の血を引くことから、白羽の矢が立ったものである。この人事は、ポルトガル摂政会議の一員ディオゴ・ソアレス、オリバレス公、実質的なポルトガル統治責任者であったミゲル・ヴァスコンセロスの努力によるものだった。
1640年、数年来の盛り上がりを見せていたポルトガル再独立は、ブラガンサ公ジョアン(のちのジョアン4世)を旗印にして革命となって爆発した。ヴァスコンセロスは暗殺され、マルゲリータは沈静化を図るものの失敗し、5年もの間反乱は続いた。マルゲリータはその間、取り巻きとともにリスボンに残り、新王ジョアンに退去を許されるまで留め置かれた。
1655年、マルゲリータはスペインのミランダ・デ・エブロで亡くなった。



抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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